美術館のすゝめ

いつかの散歩道(12月)
いつかの散歩道(12月)

 

朗報!

 

以前紹介した香月泰男の展覧会、今日から練馬区立美術館で開催されるそうです!

 

生誕110年 香月泰男展

 

今度こそ終わる前に紹介できた〜!

関東で香月康男のこの規模の展覧会はなかなかないと思うので、ぜひ機会があったら行ってみてください。画像だとこの方の作品の良さは伝わりきらず、とにかく原画を体感してみてほしいです。

 

 

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ついでの情報として、私が今狙ってる展覧会はこれ。

 

山種美術館(広尾)の

上村松園・松篁 ー美人画と花鳥画の世界ー

 

上村松園(うえむらしょうえん)と上村松篁(しょうこう)は母と息子の関係。松篁の息子の上村淳之(確か読みは「あつし」)氏も日本画家という、スーパー日本画家系の展覧会。

 

真ん中の上村松篁の展覧会ポスターをたまたま駅で見かけ、使われていたミミズクの絵に惹かれて何も知らず足を運んだ展覧会で、私は初めて日本画というものに開眼しました。その展覧会には2回足を運び、いくつかの作品の前で立ち尽くす経験をしたのは2007年か8年のこと。

 

母・上村松園の美人画の方が世の中的には有名ですが、松園はいわゆる超絶技巧の持ち主で、寸分の狂いもない筆遣いがほぼAI級。どんなに間近で見ても完璧すぎる仕上がりは見事の一言。・・・なのですが、個人的にはそのせいで感想が「良い」よりも、「巧い」が先行してしまい、味わうべきものが味わえていない感覚が残ります。

 

AI級の超絶技巧の持ち主といえば他にも有名な江戸の絵師・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)がいるけど、若冲も非人間的に「巧すぎ」て「凄すぎ」る。本当に素晴らしいのだけど、やはりそっちばかりに感想が持っていかれて、「良い」がなかなか湧いてこない。とても精密に作られた機械品を愛でているような、「機械だからそりゃ巧いよね」くらいのレベルで技術が卓越しすぎていて、感動を味わうとしたらもはやその非人間気味を賛美するしかないような。こういう感想をもつ私は超マイノリティな気がしますが、純粋に好みの問題でもありますし、これらはあくまでも個人的感想ですので、怒らせてしまうファンの方いたら本当にすみません・・・。

 

話は戻るけど、私が初めて日本画に開眼した上村松篁氏の絵は、これまたかーなーりー完璧に近い技巧を持ちながら、筆運びにはもう少し制作時の息遣いや楽しさ、思考みたいなものを感じて、「ここを描いている時楽しかっただろうな。ここは勇気いっただろうな。この仕上がりは誇らしかっただろうな!」って、創作課程を一緒に擬似体験させてくれる感覚があり、それが私にとって堪らなく恍惚なのです。

 

「絵の中を散歩して迷子になり、抜け出せなくなる」っていう表現が私のオリジナルだったか、恩師の受け売りだったか忘れたけど(多分コンビネーション)、上村松篁の絵はまさに一度入り込むと迷子になってなかなか抜け出ることができない。(以前も似たようなブログ書いてました。)一枚の絵の中で、あっちも観たい、こっちも観たい、またあっちが気になると行ったり来たり駆け回ってしまう、まるで子どもが遊園地に迷い込んだような(本物の遊園地は苦手ですが)。例えば、一枚の肖像画の中で目が一部分(例えば顔)を見つめると、その目の端っこに映った別の部分(手)の存在が気になってきて、そちらに目の焦点を移すと、今度はまた別の部分(足)が気になり、その後全体が観たくなって、また顔が気になる・・・といった具合に、目がベルトコンベアーに乗せられたように抜け出せなくなるのです。多分構図が相当計算されているのと、色彩のバランスなのだと思うけど、私はこれを松篁が19歳の時に描いた椿の作品と、中年期の鶴の作品で体験しました。

 

そんな魅惑の遊園地からやっとの思いで自分を引っ剥がし、本来の体に戻ってきて次の作品に足を進める、というのは、滅多にあることではありませんが、次の作品に進まなきゃいけないのは後に続くお客さんがいるからでもあり、でも後続を流しながらでも居たければ居たいだけどうぞ、というスタンスも、私がアートを好きな理由の一つです。お好きなだけどうぞ。でも興味がなかったら通り過ぎてくださいっていう、押し付けがましくないけど自分があるスタンス。アートってつくづく、かっこいいです。

 

最近は美術館が予約制になり、以前よりもゆっくりと観られるようになったのはコロナの恩恵と思います。美術館もクラウドファンディングしてたりと苦労されているので、静かに自分のペースで過ごせる美術館、良かったら行ってみて下さいね。

 

 

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