2024年
11月
30日
土
ついにやっちまいました。
逃し屋ハナの所業・・・。
愛ちゃんがよく臭うブツをやった後いつものベッド下へ潜ったので、私は早々にその処理を行い、少しだけ臭った空気を外に促そうと、玄関の扉を少しの間のつもりで開けたのです。
普段はその手前の台所に私が立っているというだけで近寄ることもないのですが、きっと長らく時を見計らっていたのでしょう。愛は音も立てず、気付いたら玄関の扉をスルリと抜けていました。
「やられた!」
・・・とは思ったものの、愛の性格や前の猫を失踪させた時の経験から、追いかけたら余計に遠くに行ってしまい、その方がリスクが大きいと思い、家の周りにいることが確認できたので声だけかけて玄関の扉を開けておくことにしました。
結果からお伝えすると、2時間後くらいには無事に帰ってきて、一件落着と相成りました。
・・・っほ。
今回どうしたかというと、玄関前に愛ちゃんのトイレを出し(自分の家の場所がわかるように、匂いがするトイレを出すのが有効だそう)、玄関扉を開け、入って数メートルのところに餌を置いておきました。
1時間半後くらいに一度戻った時は、私が思わず立ってしまったのに驚いてまた外出。
玄関の扉を、どうにか入ってきた愛ちゃんの背後で閉めなければならないと思い、3メートルくらいの洗濯紐を引っ張り出してきて一方の端をドアノブに結び、入ってきたらもう一方を引っ張り閉めるというアナログ作戦で無事に捕獲。
・・・私、成長してるっ!!
直後はまた出たがる様子を見せ、ふてくされたのか長いことベッドの下にこもってしまったのですが、さっき手を差し込んだら私の掌に小さな顔を乗せてゴロゴロ爆音を響かせていたので、野望を果たせて少しは納得もできたのかなと思ったりしました。
あと、実は昨晩初めて、私のベッドの隣に並べた爪とぎボックスの中で朝まで寝てくれたのです。距離が縮まっている今ならきっと大丈夫だろうとも思えていました。
譲渡してくれたねこねっと山中湖さんからは、絶対に出さないでくださいと言われているので、これからはますます注意が必要になりそう。数年前の山中湖の冬山の経験が過りました。
動物と暮らす皆さん、失踪には何時も気をつけましょうね!
私は愛ちゃんへのクリスマスプレゼントに、いよいよ名札カプセル付きの首輪をポチりましたとさ。チャンチャン
2024年
11月
20日
水
11月に入ってからますます世の中が面白くなっていますね。
号泣する人、ガッツポーズする人、叫ぶ人、控えめな人、何かを始める人。
いろんな人や光景を目にして、時代の変遷を感じてワクワクしています。
私は9月にウェブサイトのお仕事を辞退してから、何かしら入るだろうとおおらかに過ごしていたらびっくりするくらい何も入らなくて(苦/笑)、でもこれも何かしら意味のあることだろうと思って本を読んだり死ぬほど寝たりして、のんびり過ごしていました(いよいよ今月の支払いがやばい)。
自分を振り返るいい機会だなと思い、実は毎朝感謝できることを10個書き出すということを始めました。毎日続けていたらだんだんと気持ちよくなっていって、惰性で(?)11月半ばの父の誕生日に、初めて「ありがとう」レターを書くことができました。記憶もない赤ん坊の頃から今まで、思いつくあらゆる感謝を羅列して書いたのですが(「末っ子に生んでくれてありがとう」とか、「卒業させてくれてありがとう」「いつも運転してくれてありがとう」とか、そんな感じで)、何十個くらいかな?便箋5枚くらいになりました。
父に書いたら、一緒にいる母にも書かないわけにはいかず、内容が被ったり被らなかったりしながら同じだけ書いて両親に送ったら、二人ともとても喜び、母は「涙腺うるうるでゆっくりとしか読めない・・・」と今日お手紙くれました。シメシメ狙った通り!なーんてね。
実は書いた側から私自身が満足感でいっぱいで、両親が元気なうちにこんなことができてホッとしました。だってどんなにいい親でも親というのは憎いもので(←)、ずっとわだかまっていた部分があったから・・・。思い出すと腹立つことや許せないこと、そんなのいつまでも握りしめても仕方がないなって、やっとやっと、子どもっぽい自分を手放すことができたのです。
きっかけとなったのは宮増侑嬉さんという方の『すべて潜在意識のせいでした』(フォレスト出版)という書籍。「うちの親は絶対無理。だって最低、最悪だったから!」っていう人も、実は今生きているということはちゃんと愛されてきたからで、感謝できることは必ずあると言います。潜在意識に眠っている幼少期の恨みつらみをクリアにして初めて目の前の現実を変えていけるという話で、私自身少しずつ体感し始めています。
とは言え落ち着いて感謝が書けるようになる前に、親にされてムカついたことを激しい筆跡で全部書き出しました(たくさんはないんだけど)。笑 それで後々読んでみたらそんなに大したことじゃなかったかぁ、もういっか、ってなって、ビリビリに破いて棄てました。
誰しも過去の記憶に苦しむことがあるなら、そんなのもういらない、って心の底からなれたらいいですね。
*
そんなこんなでやけにスッキリした最近の私。今朝は例の如くゆっくり寝てたら「Jアラートのテストです」なんて放送が入ってきて「あぁ、そうですか」と起き上がり。外は冷たい雨なのに私の部屋は暖房で温か。1年ぶりくらいに買った食パンで作ったブランチ(上の写真)がとても美味しく(昨日見つけたレシピ!真ん中をグラスでくり抜いて玉ねぎ、卵、ベーコン、チーズを入れてバターで両面焼き、めちゃうま!)、猫はいるし、仕事も少しはあるし、感謝しかない朝でした。今日だけじゃなくて、もう毎日。
感謝を見つける習慣、いいですよ。
最近だと、紅葉とか、あったかい靴下とか、お湯が出ることとか。
揺らぎの大きいこの時代、幸せの方にフォーカスしていきましょうね。
2024年
11月
12日
火
例の如くシェアが遅れましたが、10月末、日本民藝館で開催中の「芹沢銈介の世界」に行ってきました(9月5日〜11月20日まで)。
芹沢 銈介(せりざわ けいすけ)は私が20代の頃、銀座の伊東屋でカレンダーを見て一目惚れしてしまい、それからずっと作品を見てみたいと思っていた方でした。
静岡に美術館があるのは知っていたのですが、車でも行きにくいなと思った印象で、なかなか本物の作品を目にすることができていませんでした。
染色家というイメージの強い芹沢ですが、今回はより美術家、デザイナーとしての側面も知れることとなりとても勉強になりました。欲を言えばもっと!たくさん見たかったのですが、都内で芹沢の作品をまとめて見られる機会はあまりない気がするので、気になる方、特にデザインされている方にはお勧めします(シェアが遅くてごめんなさい)!
今回は小さな冊子以外は買わず、芹沢の言葉が載っている書籍はなぜか意識的に避けてしまいました。デザインが雄弁なのでそれだけでいい、そんな気持ちになったのです。
*
実は日本民藝館自体も初めてだったのだけど(意外でしょ?)、正直話すと、行ってみて少しだけ違和感がありました。
柳宗悦が始めた民芸運動。Wikipediaによると・・・(そのままコピペ):
ーーー
民藝運動(民芸運動、みんげいうんどう)とは、手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動。「民藝」とは「民衆的工藝」の略語で、柳宗悦らによる造語。1926年(大正15年)に柳宗悦、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司が連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表したことが、運動の始まりとされる。全国の民藝館などで運動が続けられている。
日本民藝館の創設者であり民藝運動の中心人物でもある柳宗悦は、日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、江戸時代の遊行僧・木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努めた。
ーーー
名のない職人による日用品(クラフト)の中でも、柳らの目に適った美しいデザイン性を持つものが集められ、展示されている日本民藝館。器など大好きな私がこれまで訪れなかったのはなんでだろうと思いつつ、民芸品は基本的には展示されるものではなくて、使われてこそ良さが発揮されるものなのではという予見が、違和感として現れたような気がしました。すごく斜に構えた見方で、生意気なのは重々承知なのだけど・・・、民芸を知ってもらいたいから民芸を集めて展示する、ということそのものに自己矛盾を孕んでいるなぁと、この綺麗なショーケースこそ取っ払って手で触らせてくれたらいいのに、なんて失礼なことを思ったりしていました。
すごくわかりやすく例えると、B級グルメをレストランで上品に提供されてもなんか違う、みたいな感じ。焼きそばは、屋台とかであのペラペラなプラスチックの入れ物に大雑把に入れられたものを割り箸割って食べるのが一番うまいよね、みたいな、そんな感覚。焼きそばをどんなに美味しそうに展示されても、「いや、食べさせてよ!」ってなるでしょ(←)。
民芸は語らなくていいと思うし、芹沢の作品はガラスのショーケースに入れられなくてもいいと思う(貴重性と芸術性で入れているのは理解します。でも仮に民芸として位置付けるならその距離感でなくていいという意味)。
その辺の民家の台所に暖簾としてかかっていたり、カレンダーになっていたり、そんな日常の風景に溶け込んだ場面を想像したとき、初めてそのものの美しさが見えてくるような気がしました。
・・・って生意気言ってごめんなさい。
2024年
10月
28日
月
今東京都美術館で開催中の「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」に行ってきました。
と言っても、行ったのは今月頭。
ほぼ無知識のまま行ったところあまりに素晴らしく、買い求めた画集を熟読していたら早くも月末になってしまいました。
田中 一村(たなか いっそん)。
恥ずかしながらこの偉大な画家をこれまで存じ上げなかったのだけれど、遅くても知れてよかった。素晴らしすぎました。
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一村は明治後期の生まれで、子どもの時から神童と言われていたそうなのですが、今回いきなり胸ぐらを掴まれたのは、一番最初の展示物。何と一村6-7歳の頃の作品。
小枝に雀が留まった小さな墨絵だったのですが、迷いのない線がすでに大人びて、もう立派な一枚の「絵」になっている。私は日本画が専門じゃないから何とか正気を保てたけど(苦笑)、この展覧会で日本画を諦める大人が複数人出るだろうなと、最初の数枚を観て思いました。
神童というのはどの世界にもいると思うけど、絵画というジャンルでは作品が残っていることがあまり多くなく、これだけのいい状態で子ども時代の作品が何枚も残されていることに驚きました。
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神童と言えばまず思い起こすのがパブロ・ピカソ。
少々うろ覚えだけれど、ピカソが2歳の頃に描いた手のデッサンを見て、画家であった父親は自分の画業を諦めパブロへの英才教育に全振りしたとかしないとか(この辺りの逸話は色々あり、このバージョンは軽く調べたところ日本語では載ってないですが、とにかく父親はパブロの才能を見て自分の画業を諦めています)。
私が持っているピカソの画集で一番若かった頃のデッサンが14、5歳の頃のものなんだけど、大人顔負けに上手いので興味がある方は検索してみてください。ただ、ピカソと言えど残っているものはあまり多くはない印象。
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一村展では、大きな会場の三部まである第一部は幼少期から青年期くらいまでのもので、耐久性のいいキャンバスと違い、紙や絹に描かれたこれらの作品群がここまで良い状態で大量に保存されていたことに、驚きと感謝が込み上げます。
十代の頃には中国風の作品(南画)を数多く描き納め、その一枚一枚に変化が大きく、一緒に行った友人とは何度も「一人の人間とは思えないくらい画風が違ってて面白いね」と話していました。
23歳に南画から日本画に切り替えプロとしての画業を目指していくのですが、家庭環境の不遇(闘病や芸大の早期退学、早期に親・兄弟を亡くしたり、長男として家族を養わなければならなかったりと)、これだけの技量がありながら生活の部分では順風満帆とは言えなかったよう。
今のように自己発信できるSNSなどがない時代。画家として知名度を上げ生きていくには画壇に認められていく必要があるのですが、落選することの方が多かったようで、私としては、当時の業界権力者の嫉妬や牽制みたいなものは少なからずあったんじゃないかなと思うくらい、成人期以降の向かい風は強い。これだけの技量と情熱を心身に携えながら、この向かい風は大なり小なり吹き止むことがなかったように感じるし、多くはないが良き支援者にようやく支えられ何とか作り続けたという印象でもありました。
*
ただ、今回これだけの作品群をまざまざと見せつけられながら、一村の人物像というのがほとんど全くと言っていいほど見えてこず、一体どんな性格で、どんな人たちに囲まれ、何に喜怒哀楽を感じ生きたのか、見終わっても、文献を読んでも立ち上がってこない。展示されていた写真も一枚だけ、一つの色恋エピソードもなければ、生涯に渡って登場人物が子どもの作文のように家族や親戚周りに限られている。絵の才ばかりに祝福されて、その他全てはあまりにも希薄な印象を受ける。「作品さえ存在感を放てばいい」と本人は言うかもしれない。それは確かにかっこいいことなのだけど。鑑賞者としては少しだけ好奇心が満たされない感覚が残る。
東京都美術館はかなりの広さで、当初は2時間くらいを見越していたけれど、途中で小休憩2回を含め3時間半もかかってしまった展示量。あまりの情報量に、二部終わりで私も友人も「お腹いっぱい」となったところ気合を入れ直し、最晩年「奄美大島」の時代に入っていく。
*
自分の無知の言い訳にはなるが、この方の認知が広まらなかった理由に、「奄美の画家」みたいな(私から言わせれば)やや小ぶりな器に収められてしまっていたことがあるのではと思ってしまった。奄美大島での生活は50歳から亡くなる69歳までの話で、それまでにも素晴らしい作品を多数生み出していたのだから。
ただ、奄美大島という南国の題材を得た一村は、他の日本画家とは一線を画す独自性に到達したのだと言える。
一緒に行った友人がつい最近奄美大島に旅行に行き、そのきっかけでこの方のことを教えてもらえたのだけど、いくつかの画像を見ても行くまでは正直大して興味もわかなかったし、そこまで期待もしていなかった。一村が好きと言っていた友人ですら、「絶対混んでないよ」とたかを括り、蓋を開けてみたら「幼少期からこんなにすごい人だと思わなかった」とだいぶ見方を改めた模様。
ここまでの作品群が世間一般に知られてこなかった(と私が感じる)のは、一体何の手違いだろう。
*
ここで、ピカソに続き、作風そのものも比較される伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう)が思い起こされる。
若冲は江戸時代中期のこれまたものすごい絵師なのだけど、その死後200年に渡り日本人からはほぼ完全に忘れ去られてしまっていた。近年になって再発見されたのはアメリカ人コレクターのジョー・ブライス氏による功績が大きい(昨年ご逝去)。
若冲の展覧会ともなれば今はどこに行っても大行列だけれど、自国民による忘却の200年の功罪は大きい、気もする。日本人が西洋画に心奪われてしまった200年。仕方がないと言えば仕方がないことだけど、流行り廃りに左右されずに、良いものは良いと自分の審美眼を一番に信じられる人間は貴重でかっこいい。
*
今回の展覧会で一村はついに世の中に見つけられてしまった、という気がする。
生涯で目標の個展を一回も叶えられなかったという一村。人生の早々期から最晩年まで、私が見た中では最長を網羅した圧巻の回顧展。会場すぐの東京芸大をわずか2ヶ月で退学してしまった不遇の一村が、東京都美術館を上から下まで満開に埋め尽くしたことは、全く赤の他人でありその日まで知らなかった無学な私にとってすら、なんとも言えない嬉しさが込み上げるものであった。
田中一村展 奄美の光 魂の絵画
2024年9月19日(木)ー12月1日(日)
東京都美術館(上野)
2024年
10月
24日
木
一年前の今日は愛猫ミーが亡くなった日でした。
今月は度々ミーのことを思い出しながら過ごしていました。
今でも彼を撫でた時の柔らかい毛並みと痩せて骨ばった身体を手のひらで思い出すことができます。
甘えん坊でベタベタ触りたがりの私を許してくれたミー。
本当に優しい猫でした。
できるものならまた会ってもう一度抱きしめたい。
Hope he's resting in peace.
同じ一年前、山中湖の山中でペンキにまみれていた愛は、多少涼しさの増した(それでも相変わらず暑いですね、)9月ごろから少しずつ触らせてくれるようになり、最近は発情期なのか?上目遣いで撫でてくれアピールを何度もしてくるようになりました。しかし警戒心は相変わらずで、こちらが何か(わからぬが)やらかせば瞬時に引っ掻かれたり噛みつかれたりするので、私の両腕は傷だらけがデフォルトになりました(そこまで酷くないけど)。
猫って人間がお風呂に入ってるとよく浴室に入りたがるんですが、それは飼い主が溺れてるんじゃないかと思って心配してるためらしいのです(本当?)。愛ちゃんは浴室までは来ないけど、私がお風呂に入ってる間は扉の外で待つこともあり、出ると何事もなかったかのようにすぐどこか行っちゃうんだけど、一応こんな私でも心配してくれてるんだな〜って、ツンデレな分だけ嬉しかったりします。愛の楽しみ方はそんな感じ。
時間がかかるけど、いつかへそ天させてやるぞ♡
*
ミーも愛も、英語の発音表記にすると"Me"と”I"なのに後々気づいて、私は無意識のうちにこの猫たちに自己投影でもしてたのかしらと思った次第。
そういえば一番最初に飼った猫の名前は"Buddy"(=相棒)で、究極自分のベストフレンドは自分だと思っているから、これまたなんだか辻褄が合う。
前に、なんで猫が好きかわかったって書いてそのままだったけど、
つまり猫好きな自分は、猫抜きの自分よりも、幾ばくか自分が好きな人間になりうるのかもしれない、と思えたから。好きなものに緩んだときの人間の表情は、それ以外のときよりも少しは魅力がこぼれるもの、になるでしょうか・・・。
*
さて、私が超天才技術者であったなら、人間を観察するためのスパイは絶対に猫型にするであろうと思っている。目を光らせても変じゃないし、縦横無尽に駆け回れる体は時に水のようになめらか。俊敏でもいいし、ずっこけても誤魔化しが効く。屋根の上でも路上でも、布団の中に潜り込もうとも怪しまれないどころか歓迎される超高機能存在。
私にとって地球一憧れる存在、それが猫なのです・・・。
2024年
10月
21日
月
以前どこかで「言葉は雨」と例えたことがあったけれど、何かを書きたいときにはその書きたいものが空気中に含まれる水分のように自分の周辺に飽和して、ある日いよいよ耐えきれず粒として落ちる雨のように、文章というものも必要に迫られて結晶化されることが一番望ましい。
日照り続きというのは自分にとっても決して望ましいわけでもなく、本当はもっと定期的に雨が降ってほしいし、そのような自己表現が(例え一方的であっても)自分と世の中を繋いでくれる数少ないのコードであるようにも感じる。
この雨の降らない間も心の中では静かに雨乞いを続け・・・つまり内省したり、人の話や文章にすがってみたり、落ち込んだり、ときめいたりしながら日々を過ごしている。
・・・早速何が言いたいのか自分でもわからなくなったけど。
言葉が自ずから結晶化する前に無理やり降らそうとすると、こういうことが起きてしまう。
それでも、人工雨でもいいから、今日は何かを書きたくなった。
書きたくなっただけで、書く内容もそんなにないから、久々に食べ物のことを書いてみようと思います。
私は去年の今頃くらいからゆるく小麦抜き生活をしていて、パンやうどんはもう全くと言っていいほど欲しなくなったのだけど、パスタは献立の選択肢をかなり広げてくれるので許すことにしました。
小麦を抜いたことの変化をすごく大きく感じたわけではないけれど、とにかく依存対象が減ったのはメリットの一つでした。今の私は、小麦を食べてもいいし、食べなくてもいい。正直、食べすぎるとお腹の下が重たい感じがするので、頻度は減ったし、今くらいだとちょうどいいかなと思っています。
小麦をやめたら自然と和食が増えて、今は連日のようにシャケ定食がお昼の定番になっています。ご飯と味噌汁とシャケと副菜。昔から日本人がよくもまぁ飽きずに同じものを食べてきたなと思うけど、最近はこれが本当に完全食なんだなとお腹の底から理解できるようになりました。
あまりカロリーとかは気にしないけど、タンパク質だけは一日50gを目標にしていて、シャケ定食に納豆や卵をつけて、夜をパスタにするとこの目標も達成できてしまいます。小麦を抜いて和食を毎日食べるようになったら、腹持ちが良くなったので自然と間食が減り、一食一食がより美味しく感じられるようになりました。小麦や白砂糖は、脳内で「食べたい」信号を発してお腹をグルグルと鳴らすので、発信元を断つと空腹感はかなり収まるのがわかりました。
依存を減らすというのは最近の私のテーマで、これは本能的に私の中の危機管理システムがアラームを鳴らしているためと思われます。
何を食べるかだけじゃなくて、どれだけ食べるかという部分にもアラームは鳴っていて、より少ない食で幸せかつ健康的に生きられるように身体と精神を作り替えています(今は1日2〜2.5食)。ただこれ以上痩せたくはないので(だからタンパク質は大事!)、目的は仮に何かに被災したり、これ以上の食糧危機で食べものに困ったときになるべく安定していられるように・・・。
私は体質的にあまり太らないのですが(とは言え中年の今はもう無頓着ではいられない!特にお腹周り)、若い頃は過食に悩んでいたこともあります(昔は痩せの大食いで男の子たちに引かれるくらいでした・・・)。だから食べるのをやめられない人の罪悪感などはすごーーくよく分かるのです。お腹が欲してるわけじゃないけど、口が欲している。今思えばストレスとか色んな原因があったのだと思います。
私が過食をやめられたきっかけは27歳で姉の出産の手伝いに2週間ほどマレーシアの姉宅に滞在したこと。人様の家の冷蔵庫を漁るわけにもいかず我慢していたのですが、人間の胃は3日ほどすると収縮するので、この3日間を乗り越えれば食べる量は自然と減らすことができます。もし本当に食べる量を減らしたかったら、3日間だけ、ちょっと物足りない量で頑張ってみて!(人によっては数日誤差あるかもだけど)そのあとは頑張らなくても前と同じ量は食べられなくなるので、それを維持するだけ。
あと、基本的に安いものは、安いからいいやってパクパク食べてしまうので、あえて高いものを嗜好品のように買って、それをしっかりと味わって食べると満足感を上げつつ食べる量を減らせます。過食の時は1ドルの板チョコを1枚一気に食べ尽くして量で満足していたけど、1粒1ドルの美味しいチョコレートに変えて満足の内容を変えました。これも全方位でいいことずくしなので本当におすすめ。
もう一つ、私が食に関して貪欲さを感じた時思い出すようにしているのは、生涯体型が変わらなかったというオードリー・ヘップバーンの言葉。
「スリムな体のためには、飢えた人々と食べ物を分かち合うこと」
なんとなく、ただ「飢えた人々と食べ物を分かち合いなさい」と言われるよりも、そうするとあなた自身も軽やかな体型でいられるよ、って言われた方が私利が働いて自制できそうな気がします。具体的に何かを人に差し出す機会がなくても、お買い得だからと余計に買いそうになった時、これを必要としてる人がいるかもって思って買いすぎないようにしています。もし好きな考え方だったら採用してみてください。
あ、ここまで書いて、太るのは悪いこと、みたいに聞こえてしまっているかもだけど、ありのままや変化する自分を受け入れられるのはとても素敵なこと(この歳では太る方が自然だから、私は抗っていると言えば抗っている・・・?)。食べる喜びも大事だからなんでもバランスだけど、もしも身体の方からSOSを感じるなら、大事になる前にきちんとケアしてあげてほしいなと思います。できれば数値で見せられるより前に、感覚のSOSを聞けるように。私は過食で逆流性食道炎になったり、胃痛があったり、肌荒れしたり、常に頭の中でいつ、どのタイミングで食料(主に菓子パン)をゲットし、同僚の目を盗んで食べるか、みたいな精神も含めて今よりだいぶ不健康でした。食べ物にマインドを支配されすぎないようになると色々と楽なので、やっぱりおすすめしたくなることではあります。
なんであれ、幸せに生きていきましょう。
2024年
10月
02日
水
・・・といっても、リアルな引越しではなく、このHPのお引越しです!びっくりした!?
本当は引っ越しなどしたくないくらい愛着もあるし、移行は何かと大変なんだけど、5ギガの容量の95%をすでに使っており、これまでも古いものを削除したりで何とかしてきてたけど、そろそろブログ1つを上げるのも限界なのでもっと大きいお家に引っ越すことにしました。
やらなきゃと思いながらもダラダラしてたら、今日狙ってたプランがなんと50%オフというキャンペーンがあったので、お尻叩かれたような気分でようやく契約まではしました。新サイトのデザインはこれからになります。多分年内にはお披露目できると思うので楽しみにしていてください。
このサイトは案外飽きのこなさが気に入ってるのと、ここまで積み上げてきたポートフォリオや文章を失うのは残念なので、年末の解約時に無料ドメインに変更してなんとかアーカイブ的に残せたらなと思っています。
でね、まだ新サイトのイメージ全然湧いてないんだけど、どちらにしてもプロフィール写真的なもの載せなきゃいけないじゃないですか。それでね、実を言うと今Bioで使ってるハタチ(21?)の頃のガーナのビーチでのスナップショット、プロフィールの文章にも合って(一緒に写ってしまっている、当時も男性か女性か見分けが付かなくてガーナ人ぽくもないし一瞬怖いなと思ってしまったけど何事もなく歩き去った謎の人物、を今の技術だったら簡単に消せるんだろうけど消してないママの感じとか)素朴でちょっと変で大好きなんだけど、さすがにこれを使い続けたら方々から叱られそうなので、変えなきゃとは思っています。だけどさ・・・、私ってなんかいつも写真映りが微妙で(本体の出来の方はself loveのために悪くは言わない笑)撮っても削除しちゃうことの方が多く、かろうじて残った中で、あ、これどうかなって思ったのが上(↑)・・・。やっぱりクリエーター・フレンズに怒られそうだわ。笑 でもさ、実物以上に良すぎる写真を使うのも実際会った時にボロが出るし・・・(私は2、3回目のミーティングくらいで「あれ、タナザワさんて、・・・あれ?」みたいな感じになってるっぽい笑)。世の中の素敵なデザイナーさんみたいに堂々とカメラの前でポージングとか、私の場合恥ずかし過ぎてできる気がしないのです。上の写真はさ、嘘がないよね。猫好きだし、大抵ゴロゴロしてるし(←)。とっても私らしい。
イラストレーターさんのプロフィールとか見ると写真の代わりに自画像使ってる方もいて、そういうのもいいなって思うけど、私の顔って「絵に描きたい!」ってモチベーションが1mmも湧かない地味な顔・・・特徴がメガネくらいしかない気がする(メガネって)・・・。
↑これはね、今年の1月くらいに能登のチャリティイベントでプロカメラマンの難波由佳ちゃんが撮ってくれたもので、ナンバちゃん的には「このハナちゃんめっちゃかわいい〜〜」ってことらしいのだが(アリガトウ)、自分的には、「・・・?」。でも光とかは本当に美しいし、さすがの腕前だからこれにさせていただく手はありかもだけど(多分頼めば使わせてくれる?)、もう少し職業に結びついた物語を感じる(例えば何か作ってるとか)画だったらいいなと思うのが、選択肢ないくせに欲張りなところ。えー顔だけ使う〜?
・・・とかぼやきつつ、フォトアルバム2周目漁り続けていたらこれ(↓)見つけた!!
もはやプロフィール画像の意味・・・笑
しかし物語性はあるし、真剣な顔にボサボサ頭が今以上に画伯感ある。笑
さて、こんなしょうもないことをわざわざ書いているのは、本気でこんな程度のプロフィール画像を使う可能性が大いにあるので、新HPを見てもらった時の皆さんからのツッコミを今から軟化させておこうという作戦でございます。
諸所、お楽しみに!
(まだしばらくは当サイトでお世話になります:))
2024年
9月
24日
火
私はいつの頃からか、世の中の人をざっくりと二分するようになった。
分類名はずばり「海の人」と「森の人」。
「海の人」:おおらかで人懐こい。態度や身振り、服装が大きく派手で、声もでかい。細かいことは気にしない、気にならない。日焼けが似合い、カラフルでスポーティーな活動派タイプ。海の側で育った、または住んでい(た)て、お祭りやフェスなど大勢で騒ぐことが好き。部屋はあまり片付いていないか、インテリアがチグハグ(でも好きなものの集まりだから統一感とかは気にならない)。
「森の人」:シャイまたは独り・小グループ好き。服装は無地や天然素材が多い。色白で少し頼りない感じがするが、食べ物などには気を使う別の意味での健康オタク。趣味はカフェ巡り、芸術鑑賞、読書など、無意識的にも陽を避け、木漏れ日の中を歩くような行動をとることを基本としている。人混みや目立つことが嫌いだけど、海の人とはまた違った形で実は目立ちたい気持ちも隠し持っている。インテリアや暮らし、その見せ方にこだわりがある。
「海の人」と「森の人」の最もわかりやすい目安として、SNSのアイコンをチェックしてみてほしい。
大きく、またはカメラ目線で堂々と顔を晒し、笑顔や堂にいったポージングのものであればそれは紛れもない「海の人」。
対して「森の人」は、遠景、シルエットであったり、うつむいていたり横顔であったり。はたまた風景や動物や子どもの頃の写真であったりする。モノクロや加工もやりがち。
「海の人」はまた、掲載する写真にも特徴が大きい。ビーチだろうがゲレンデだろうがライブ会場だろうが、両手を広げて大きなポーズと笑顔を振り撒き、背景よりも人物が多め、大きめ。自撮りも多い。一発撮りならではのその場のノリをヨシとする。「海の人」にとっては人物こそがメインなので、背景や写りや構図の良し悪しは二の次。食べ物その他にしても、被写体を撮れていることが重要なので、影が入っていようが、背景がごちゃついていようが、食べかけだろうが、画像の出来は問題ではない。
「森の人」は間接的な目立ちたがり屋。人物であっても食べ物であっても、背景や写真の写りをしたたかに計算し、微妙に光や構図を変えて繰り返し撮り直し、「海の人」には理解できないであろう細部まで行き渡った渾身の画像のみをアップする。自分が撮られる場合は顔や体の一部が少しでも隠れていると安心する。また自分ではない、自分に代わるもので自分を表現したがる。
画像に添える文章にも特徴がある。
「海の人」は絵文字が多く、文章も瞬発的、テンションが高め。
「森の人」は絵文字控えめ、行間のバランスまで注力する。句読点を使わないなど独特の美学がある。
「海の人」は太陽の下で隠れようがないがごとく裏表がなく、感情がわかりやすい。人を褒めるときも悪口も等しく盛大。善悪に関してもケロリとしており同じ失敗を堂々と繰り返す。
「森の人」は感情を心の中に仕舞い込み、不満なことには小さく呟く。怒りよりも悲しみややるせない感情が膨らみ、泣きたい時は自分の森の奥に引き込み、気が晴れるまで一人で泣く。
「海の人」は全身が太陽に照らされ、全てが明らかであることに安心する。
「森の人」は木々に隠され、守られていることに安心する。
「海の人」は「太陽の人」、「昼の人」。
よく言えば大らか。悪く言えばガサツ。
「森の人」は「月の人」、「夜の人」。
よく言えば細やか。悪く言えば神経質。
・・・さて、貴方はどちらだろうか。
*一個前の写真を見て日頃から感じていたことを書いてみました。
私からすると明らかに「海の人」である姉(森の性質も持っているが)に「季節感おかしい」って写真を送ったら、「昔は寒さを感じなかった」と。「寒いのに車の窓開けられて寒かった」と言ったら、「覚えてない、ほんとごめん笑」て。・・・笑、て!「森の人」を自認する私はしばしば「海の人」の被害者なのである。「森の人」が「海の人」にやらかしてることもまたあるのだろうか。
*あくまでも私個人が考えた分類なのでエンタメ程度に捉えてみてくださいね。極端に書いてるから実際にはほとんどの人がどちらの性質も兼ね備えているのでは。
2024年
9月
16日
月
今朝、というよりほぼ昼間、に起きたら携帯にいくつか通知が。
今でも時折連絡してくれるカナダの兄ちゃん、ダニエル(写真右)。たまたま見つけたのか、無言でこの画像を一枚送ってきた(その後少しチャットして追加で二枚)。
ダニエルが20歳くらいで、私が高1か高2くらいかな。真ん中は新潟の兄ちゃん・とうきくん。
二人とも我が家でステイして働いてくれてた頃。
今はどちらも立派にパパさんですが、楽しかった二人。不意にこういうやりとりは嬉しい。
もう一人私の大好きなスイス人のメンター、アル(おじいさん)もまた同じ朝、SMSで「手紙を書いたけど住所があってるかわからないから教えて」と連絡が。もう20年くらい、毎年クリスマスカードと誕生日カードを送ってくれるアル。もう90は過ぎてる?時代が合っていたらこの人と結婚したかったって思うくらい大好きな人。手紙ってなんだろう。楽しみ。
気づいても、気づかなくても、今日も誰かがあなたを思ってる。
って気づかされた朝。
・・・きっとね。
2024年
9月
12日
木
時間がありすぎるので、頭の中を書きながら整理。
今月自らの意思で、とあるやや大きめの案件をご辞退させていただくことになったら(先方にはご理解いただきました)ぱっくり時間が空いてしまって、現在確定している案件0。
そんなこともあるのがフリーランス稼業。怖がるどころか、どうなることやら、とちょっと面白がっている節がある。年末まで生きていたら拍手喝采してください。
起こることは全て必然。なのでこの空いた時間にも何かしらの意味があると思っている。
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様々な意見があると思うけど、私は数年以内には日本でもベーシックインカムが導入されるだろうと思っていて(知らない人は調べてね)、そうなると懸念されているのが、人々の労働意欲の低下。仮にベーシックインカムが導入されなくても、仕事は目にみえる場所でもすでに少しずつ機械に置き換わっていることから、人間の労働力はますます必要とされなくなるだろう。それを見越してベーシックインカムが議論されているわけだけど、あまり忙しいのが好きではない私はむしろ歓迎派。現実逃避とか楽観論ではなくて、どうやら世の動きはそちらに向いているようだ、というのが感じるところ。
さて、基本怠け者な私ですら、今のような時間の空きを経験すると、毎日猫のようにゴロゴロしているのはやっぱり退屈なんだなというのが実感である。
「そんなに働かなくても最低限の生活は保証するよ」って仮に言われる日が本当に来たなら、私は日々をどうやって過ごすだろうと考えた(ちなみに最初は5〜7万とかの低額から、徐々に上げていくのではと言われている)。私は今だって足り過ぎているわけではないので、ベーシックインカムをいただきながら生涯現役でいるのがちょうどいいと思えるけど、世の中の需要はいつだって想定しきれない。
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絵を描いていれば幸せと思っていたけど、実際に時間がいっぱいできると、絵だって毎日毎日描きたいわけじゃない。そうか。じゃあ本を読もう。・・・お尻や腰が痛くなってきた。大好きな料理。意外と、仕事の合間にするから気分転換に凝っちゃったりして楽しいんだと気がついた。幸い寝ることだけは何時間も(ついでに昼寝すら)できるので、ショートスリーパーだったら時間ができ過ぎて困ってしまうかもしれない(ちなみに寝過ぎが原因なのか?最近の検診で身長が2cmも伸びたよ!初の163cm!そんなことある?!笑)
来たるベーシックインカム導入後の未来に備えて、こんな私ですら、これはちょっと考えないといけないと感じ始めた。良いようで、自分というそのままの存在に直面することを強いられ、鬱や無価値観に苦しむ人もまた増えると予測されている。特に、労働することで価値を実感できている人は、ありのままの自分を受け入れられるために瞑想などで自己を見つめることや、たくさんの時間を使って夢中になれることを探すなど意識的に備えておく必要がありそう。ちょっとした趣味や遊びなら数時間、数日で間に合ってしまうので、「たくさんの時間を使って」「人生をかけて」という観点から探してみると良さそう。
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私自身は、自分の仕事の発展性も兼ねて、もっと制作をアナログ寄りにしたいと感じている。日頃から、自分の仕事はあまりにもテクノロジーに頼り過ぎて、デザインソフトや電気を奪われたら何もできないじゃないかという危うさを潜在的に感じていたから。大して進化もないのに毎年高いサブスク料を支払わされるのも依存を利用されていると感じるし、本当なら、土に指で描いたって創造力というのは発揮できるものではないのか。せめて紙と鉛筆、それだけで世界中どこへでも行ける可能性を感じた原点を思い出したい。
デザインソフトなどない時代のデザイナーたちは、一体どうやってデザインしていたんだろう。この疑問は長らくあって、そろそろ真剣に学びたいと思っている。
今考えさせられていることはたくさんあって、書き始めたら溢れ出してまだ入り口くらいなので、何度かに分けて書いてみようと思います。
・・・時間いっぱいあることだし!
2024年
9月
05日
木
広島旅行から帰ってきてもう1ヶ月近くなるが、旅の直前、私も関わらせていただいた京急富岡の新書店「瀾書店(なみしょてん)」にて旅のお供を一冊選書した。
選んだのは、(どういうわけかこの方をこの時まで全く存じ上げなかったのだけど!)昭和の大女優・高峰秀子の『ベスト・エッセイ』。これが予想を超えてとてもとても、面白かった。8月下旬になりその感想を瀾書店店主・島田さんに伝えたら、私物のエッセイ集(高峰秀子『わたしの渡世日記(上・下)』)を貸してくれて、これがまたあまりにも面白くて読んでいたら9月になっていた。
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何度か前の軽井沢滞在中、たまたま堀辰雄の『大和路・信濃路』という本を買い開いたら、文章にその土地の匂いや湿度がまとわりついてより立体的な読書体験となった。それ以来、旅先に本を持って行くときや現地で調達するときはその土地と本との食い合わせ(マリアージュ)のようなものを意識するようになった。
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私は昨年の軽井沢旅行からついに新幹線好きになってしまったのだが、新横浜から広島まではおよそ3時間半。
車窓から風景を眺めるのも好き、食事するのも好き、うとうと寝てしまうのも好き、本を読むのも好き・・・だもんだから、3時間半では到底足りないだろうと思うくらい新幹線での時間を楽しみにしていた。
ある程度乗り心地を楽しんだ後開いたこの本の最初のタイトルはなんと「旅のはじまり」。「四人目の子供」であった高峰さんの人生の始まりを物語る冒頭部分は、私自身も四人目の子供であったこともあって、すぐさま選書が成功したことを実感した。
ただし、その後の人生は似ても似つかぬほどで、私はつくづく一般凡人で良かったと思わされたのではあるが・・・。
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次に新幹線に乗ったのは2日後、広島から京都へ1時間ちょっと。
駅弁を食べ終え、開いたページからは、高峰秀子バージョンの戦争体験が記述されており、たった今まで見てきた様々な戦争に関する資料や情景をすぐさま脳内に引っ張り出すことができた。服装に関して描写されれば、あぁあれのこと、とその素材の質感まで思い浮かべることができたし、千人針とは、と現代にはないものをイメージできるようにもなっていた。
高峰秀子は戦時中も売れっ子スターであり続けたので、書かれている戦争体験は一般人のそれとは大きく異なり、戦争というものをさらに多角的に知ることとなった。
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4日目の名古屋では20数年ぶりの大学時代の友人と合流し、思い出話で盛り上がった。
私は忘れられない良き経験があって、当時その名古屋の友人を含めた日本人学生3人でIHOP(=アイホップというパンケーキのチェーン店)で外食した時のこと・・・。
クリームたっぷり、いかにもアメリカンな甘々パンケーキを食べたり写真を撮ったりして楽しんでいたら、終わり頃ウェイトレスさんが近づいてきて、「あのおじさんがあなたたちの分も会計済ませてくれたわよ」と言ってきたので、私たちは慌ててそのおじさん(達)を駐車場まで追いかけお礼を言った。「君たちがとてもかわいかったからだよ」と言って笑顔で過ぎ去って行ったのだけど(多分子どもみたいな幼稚なかわいさ?)、私はそのことが忘れられずに、自分もいつかあんな粋なことを見知らぬ誰かにしようと心に決めている・・・。
そんな話もたっぷりした後、乗った最後の新幹線は新横浜まで1時間半弱。
開いたページには、志賀直哉著の『小僧の神様』のあらすじ。
「ある秤屋の小僧が、見知らぬ他人に思いがけなく鮨を御馳走になり、その人を神様ではないか、と思う」との一節・・・。
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私がこの本を選んた理由は、旅にはエッセイがちょうどいいこと、持ち運びしやすい文庫本サイズが良かったということが大きい。だから中に何が書いてあるか想像もつかなかったし、瀾書店店主のおすすめもあり、多分好きだろうなくらいの直感だった。いくら自分が本と旅のマリアージュを気にしているとはいえ、ここまでの食い合わせとは驚きだった。
この驚異的なシンクロニシティは旅が終わった後にも続き、8月30日に自宅で開いた『わたしの渡世日記』下巻冒頭には、8月30日に起こった出来事が描かれていたし、やたらと世間が米不足でざわついていると思ったら、鉄かぶとでお米を炊いたという(日本人にとって米が重要であると思わされる)日系米兵の話・・・。
『わたしの渡世日記』は上下巻ともそれぞれ1.8mm程度の厚みであるにも関わらず、まるでアコーディオンのように広がる読感は5、6cm幅の書物を読んでいるかのような、今までにない不思議な体験だった。
昨日また『高峰秀子おしゃれの流儀』というのを買って読んだのだけど、今朝になったらなんと今年が高峰秀子の生誕100年目ということを教えてもらう・・・。
「高峰秀子生誕100年プロジェクト」公式サイト
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昭和の書き手といえば、一番のお気に入りはずっと向田邦子なのだけど(比較するならやはり軍配はこちらに挙がる)、系統としてはかなり近しいお二人なのに、その片一方が今のいままで私の人生から抜け落ちていたことが不思議でならない。マイケル・ジャクソンはずっと好きだったけど、ビートルズのことは存在すら知らなかったとか、わかりやすく例えるならそんな感じ。
向田邦子は賢くもおおらかなのに対し、高峰さんは厳しく近寄り難い印象・・・。だけどこの方の文章には嘘や隠し事がなく(極力少ないように思われる)、演じるのが仕事である女優の文章としてはあまりにも本音が過ぎて、私はただその一点に惚れ込んでしまった。
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旅先に本を持って行く時の選書に無頓着な方も多いと思うが、例えばハワイにロシアの文学を持っていくことはそのどちらの経験も味わいきれなくなるので、次の旅路にはぜひ意識してみてほしい。今回の余韻はこの見事なマリアージュのおかげでその後1ヶ月も続き、まだまだ膨らんでいきそうな予感である。
2024年
8月
13日
火
初めての広島に行ってきました。
プラン立ては去年の夏、軽井沢旅行から戻った私がふと、旅行を共にしてくれた友人・ミカに「来年は広島に行こう」とLINEしたことに始まります。
九州出身のミカも広島未経験だったので、私たちの真ん中よりやや西寄りの広島現地で落ち合うことに。
ここ数年、戦争というものがどうしても意識の片隅にあり、そろそろきちんと見知っておきたいような気分で、沖縄でひめゆりの塔に行けたのも、薦められて観た映画「オッペンハイマー」や「太陽の子」(今は亡き三浦春馬さん出演のもの)や幾つかの書籍を経由して、ついに原爆投下その地まで辿り着きました。
真夏の広島の暑さは覚悟していたけど、なんとなくここに来るには真夏がいいような気もしたし、友人の都合で旅の始まりは8月7日という、原爆投下後79年目の翌日になったので、前日の式典の名残も少し感じることができました。
街が広いせいか、思ったほどに混んでいなかったことと、外国人観光客は(言語から察するに)イタリアやフランスなどのヨーロッパ系が大半。最近横浜や鎌倉ではアジア系の方が多いから、都市によってこんなに変わることが印象的でした。
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1日目は着いたその足で原爆ドーム周辺を歩き回り(その前に広島風お好み焼きで腹ごしらえ)、一度宿で休んで夕方5時頃に原爆資料館へ。すごく恐ろしかったかというと、覚悟していたので案外大丈夫ではあったけど、被災した当時の痛み・苦しみ以上に私たちにインパクトを残したのは、その後を生き延びた方達の貧困、迫害の物語・・・。それは見えないところで今も続いているんだろうなと、令和6年の今に繋がった瞬間でした。
爆心地の近くは緑いっぱいの大きな公園が広がっていて、その木陰に安らぐ瞬間が多々あったけど、そもそもは立ち並んでいた民家が吹き飛ばされた故のことだし、樹形が(私も友人も)少しグロテスクに感じたのは、汚染された大地が浄化される経過を見るようでもありました。
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2日目は、フェリーで45分ほどの宮島へ。
船内はほとんどがヨーロッパ系(と見られる)観光客ばかりで、私たちが海外に行ったみたい。着くとあちこちに鹿がいて、自分たちが愛され傷つけられることがないと知っている鹿ちゃんたちは、なんともおおらかで可愛かったです。でもバッグに入れてた紙のパンフを食いちぎられたので、行かれる方は注意!
宮島の方が日本人観光客も沢山いて賑わっていました。
厳島神社は海上に建つ見事な社殿で、青い空と海に映えていて立派でした。
島自体が御神体と考えられていたためだそうで、最近は日本の歴史や神話も面白いなと興味を持っているところです。
その後また広島市内に戻り、レストハウスという建物を見学中に小さな地震がありました。あまり気にしないでいたら海外の姉たちから「今広島なんでしょ?大丈夫?」と連絡あり・・・。美味しいイタリアンに舌鼓を打った直後だったので(牡蠣+白ワインどうしても行きたかった!)その時の画像送ったら私のノー天気さにホッとしたようでした。笑 宿に戻り宮崎の地震が結構大きく報道されていたけど、その夜も難なくぐっすり眠りました。
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3日目は、京都を経由して名古屋へ(新幹線は普通に動きました)。
京都は京セラ美術館で開催中の「村上隆もののけ京都」という展覧会目当てで、ほんの5時間ほどの滞在。
村上隆は私が20年前にアメリカで学生の時から現地の雑誌などでも知られていたし、私はあまり好みではないけど、否、好みでなくても著名な方は(どうして愛されているのか知るためにも)なるべく観るようにしています。日本での大きめの展覧会は今後もおそらく珍しいので、興味がある方はぜひ行ってみては。私は、特に魅せ方がとても巧みだと思いました。作品そのものは敢えて主観を言いませんが(笑)、アートは好き嫌いで判断していいと思っているので、結果的に「わからんやつだな」と言われてしまっても全然いいと思います。・・・まぁ、ちょっとだけ言うとね・・・やっぱりあまり好きではないんだけど(苦笑)、なんというか超完璧主義の神経質な印象で(超絶技巧ではある)、癒しとかよりもどちらかというとピリピリとしたものを受け取ってしまいました。好きな人はパワフルでビビッドなエネルギーを受け取るのかな。そういえば他の展覧会よりも若い人が沢山いて、若者を運べるエネルギーはすごいなと思いました。
京都で夕食後、名古屋に移動し、到着後くらい(?)に今度は神奈川で地震があったみたいだけど、こちらもありがたいことに影響を受けずに過ごせました(横浜の知人は何人か結構怖い思いしたみたいでした!)。
宿泊は初(?)のカプセルホテルへ。寝るだけだったら全然お手頃でありだと思います。私たちは移動と食事にお金をかけて、宿は安く済ませるプラン。わざわざ一泊したのは、翌日に名古屋在住の友人に会うため。もはや21年ぶりとか?私は大学1年時(迷走していた頃)環境学に進むことも考え、一緒にそういうクラスを取っていた友人・リエは、その後その道を極めオーストラリアで博士号まで取ったのですが(すごい!)、どうしてもその後の間口は狭かったらしく数年前に帰国。今は(分野は違うけど)英語で論文を書く仕事をしているとか。すっかり立派になったけど、基本は変わってないというか、おっとりしていて色々と懐かしかったです。来年の夏旅(もはや恒例行事になる?)は3人で北海道に行こうということになりました。どうなることやら!
帰りの新幹線も、横浜の家も、猫もなんの問題もなかったので(あ、一度糞テロは起こしていたらしい!爆!)すっかり満喫できた旅でした。散財してしまったから、また引き締めてお仕事頑張ろうと思います!
今年はもう旅行の予定はなし。笑
色々と経験できて感謝感謝でした:)
2024年
8月
11日
日
世の中的によく「(重荷となっているものを)手放せ」とか言われるけど、
今日ゴロゴロしていたら急にイメージが見えて一つの悟りを開いた。
つまり、手放すというのは、風船を掴んでいた手を開くというような地上側の視点ではなくて、
手から離れていく風船側の視点で見ればいいのだということ。
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この重力場で長いこと自分を掴んで離さずにいた(あらゆる想念、過去の良い/悪い記憶、関係性、後悔、未練、トラウマ、不安、恐怖心、恨み、憎しみ...などの、)指先や枝先、フェンスの絡まりから一度でも解放された風船は、ただ「そのもの」となって天高く舞っていく。
解き放たれたその体は軽く、
次第に広がる景色は雄大で、
風は優しく
雲は楽しくて
星が輝いている。
そんな風景に夢中になっている間に、地上の重たい記憶は徐々に遠のき、
悲しさなどなくて、あるのは軽やかな幸福感だけ。
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手放すという行為は、持っていた風船を手放すような、やってしまった後で後悔や未練が残りそうな勇気のいることに感じていたけれど。徐々に小さくなる風船をいつまでも目で追ってしまいそうな、虚無感に取り残されたような下からの目線ではなく、自分が風船になればよかった。
執着を手放せば軽くなるというのは、つまりはそういうことなんだ。