2025年5月12日のメモをそのままコピペ
- 2 日前
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正月ぶりに山中湖に帰ってきている。
久しぶりにテレビをつけて、日頃知らない、というかもう何年も前に遠ざかった世界がそこに存在していることに驚いている。驚きの内容は二つ。
一つは、全く変わらないこと。変わらない顔ぶれの(しかし久しぶりに見るので気付ける程度にわずかに老いた)タレントたちが、あいも変わらず無理やり引き上げた非日常的なテンションで、擦れて摩耗しきったテープのように、同じような笑いを、同じようなリアクションを、繰り返しやり続けてもはや限界がきていること。彼らの表情を本当によくよく観察したなら、液晶の鮮明さも手伝って透けて見えてしまう。不自然なメイクの下で、その顔が微少に引き攣っている。飽き飽きしている。打開出来なくて困っている。
芸能界というのは、もともと舞台の上だったわけで。明るく照らされたスタジオ内で表情をアップで抜かれることは、ここまでテレビが肥大化し、液晶がクリアになった現代ではタレントには不利に働く出来事だったのかもしれない。
驚きのもう一つは、何億再生されているとかいうわりに全く知らなかった流行りの曲やアーティストが多々存在しているのだと知ったこと。現在そんなにも流行っているらしいアーティストを、私はこれまで1ミリも知らないで生きてこられたのだ。
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まだテレビを日常的に見ていたころ、似たような不思議な感覚を得たことをがある。新宿の地下街に足を踏み入れた時、地下が地上と変わらずたくさんの人で溢れていて、たくさんある店舗の隅々に人々がいて商売し生きている。それはまさに蟻になって蟻の巣に潜入したかのような不思議な異世界だった。
何度も歩いたことのある地下街である。でも、数年ぶりに再びその光景に触れると、その世界がまだ存在していたことに驚きを感じたし、この地下で長く働く人たちは、私が生きた数年と同じだけの年数を、日中太陽の光を浴びることもなく生きたのかと思うと、それは全く別の世界の別の人生のような感じがする。
同じ感覚は、一度やめたFacebookを何年ぶりかで再びアクセスした時にも起こった。私にとっては消滅したその世界が、そこで生きる人たちによってあいも変わらず稼働していたのだ。
当たり前だけど、自分が居ても、居なくても存在する世界。それはまるで地上と地下ですれ違うかのように、同じ地点に居ながら決して出会うことがないパラレルワールド。きっとこのパラレルワールドが、地上と地下の区別どころか、巨大な高層ビルのように何十層にもなって、私たちはよりカスタマイズされた、自分や自分と価値観が合う人だけがすれ違うことができる各々の階層で生きているのだろう。だから、どこかの階層で流行ってる流行り物なんて知らなくて当然なのだ。私の階層では、私の好む流行が起こって私も私でそれに熱狂している。
そんなものは今までにもあった。階級と呼ばれるものは、以前から。ただ、現代はその層がより細密に仕向けられている。アマゾンの倉庫で段ボールが淡々と細かい住所に仕分けられるように。アルゴリズムによってより自分好みの情報が優先して提供され、私たちはその好みの世界を一番に信じ、生きていく。
家族のように同じ階層に居ることは居ても、見ている情報が違えばそれは空港で行き交う動く歩道のように、一方は右から左に、他方は左から右に、異なる価値観で真逆の方向に運ばれていくこともある。マスメディアを捨てた私と、今だ受け続ける両親とでは、あいにくそのような価値観のすれ違いを感じないこともないのだ・・・まさに今日とか。一つの事象に対してこんなにも真逆の考えが持てるのかと、彼らの意見を聞きながら絶句した。しかしそれも一つの世界。一つの意見。私は自分の意見を言うことを控えた。
果たして自分はどんな世界に生きてるんだろうと思う。自分に合う人だけと交じり合う世界。平和で争いも少なく幸せかもしれない。それぞれの階層が幸せであれば、それで良いかもしれない。でも同じ人間同士、交じり合わない寂しさも、感じなくもない。




