許すとは、忘れること
- tanazawahanae317
- 7 日前
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更新日:4 日前

「許すとは、忘れること。」
これははるか昔、私がまだピチピチに若かった高校生か大学生頃に知ったマザー・テレサの言葉である。
直感的に、「なるほど」と思った。
程よくわかりやすく、どこかとぼけていて可笑しい。
ともすると、「許すこと」をとても神聖化しがちな私たちは、「許そうとしている自分は素晴らしい」とか、「許せない自分て何て最低なんだろう」とか思いがちなのだけど、能動的に他人や出来事を許そうとするのは、消えゆく燃えカスに酸素を送るような、本来の意思と反する行為になりかねない。つまり、にっくき彼奴!(かの忌々しい出来事!)を「許す」と意識することで、そのにっくき記憶を延命させてしまっている可能性もある気がするのだ。
もしも私たちが、何かや誰かを許さなければならないのなら、「忘れる」は最良かつもっともシンプルなアンサーのような気がする。思い出しそうになったら、違う楽しいことを考えたり、行動してみたり、寝てしまったり。そんな日々を毎日毎日過ごしていれば、ほとんどの人間にデフォルトでインストールされている許し(=忘れ)のプログラムが、たとえ全てでなかったとしてもその大部分を癒していってくれると考えるのは、私にとっては大いなる慈愛であり、希望である。つまり、私たちは「聖人的に」「清らかに」何かを許そうとするのではなく、ただ「人間的に」「ボケボケと」忘れていけばいいのである。
そう考えると、人生そのものも、もしかしたら大いなる許しのプログラムなのかもしれないと思う。
私たちは基本的にはエントロピーの法則に従って誰しもが老い、様々なことを「忘れて」いく。
ボケや痴呆は一方では悲しいものではあるけれど、もしも同じだけ嫌なことも忘れていけるのなら。
「あれもこれも色々あったけど、今となってはもうどうだっていいや」って思えるようになるのなら。
別に頑張って何かを許そうとしなくていいし(許せないことは仕方がない)、ただ人生をなるべく楽しく可笑しく、そのことを考えずに生きようと工夫していけばいいというのは、私からしたらちょっと気楽な救いのコースである。
・・・なんてそんなことを、愛猫に何度もベッドの上で粗相され、洗ったばかりのシーツを剥がしてはまた洗う自分を客観視しながら想う今日この頃。その時は怒るのだけど数時間後にはまたすぐに「可愛い」とデレデレしてしまう私は、「忘れ=許し」のプログラムを日々強靱化させられているのかもしれないな、と・・・。


