2回に分けようと思ったけど、長めに1回で(余裕ある時にどうぞ。PC推奨)。
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子どもの頃から、北欧かどこかのハーフ?って聞かれることの多かった私には、実は半分沖縄の血が流れている。
母は高校まで那覇育ちで、母以前の祖先もおそらく代々沖縄の人。私に沖縄らしさがないように、母も言葉や食文化に沖縄らしさを感じさせることがほとんどなかった。
大学で東北に出て医者になり、3人の子どもを持った祖父・繁は、屋比久(やびく)という名字に不自由を覚え藤原に改名したため、今となっては余計にわかりにくい。那覇に戻ったのは母が小学校低学年の頃か。
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私が初めて沖縄に行ったのは赤ちゃんの時、もちろん記憶なし。
2回目は、小5で家族全員(6人家族+父方の祖父母)で行ったツアー。その時、最初で最後、繁おじいちゃんと数時間だけ一緒に過ごした。宴会場に入ってきた初めてみる祖父は、よく日焼けして頭ツルツル、ニコニコ顔にふっくら体型の、一言で言うと太陽みたいな人だった。酔って陽気だったのか、優しそうって思ったけど、言葉を交わした記憶はほとんどない。その翌年、癌で他界した。
3回目は、コロナ前の2019年夏、姉が企画・スポンサーしてくれた沖縄旅行。「琉球」から一文字取った8月生まれの甥っ子もいて、よく晴れてとても楽しかった!
で、今回4度目。初めての離島。
2月頃父から電話がかかってきて、「石垣島でツアーがあるけど、もし行きたいなら誕生日プレゼントするよ!」と。旅行好きでしょっちゅう二人して出かけてるけど、沖縄となると唯一日本に残る私を置いていけなかったのかもしれない。安くはないので海外の兄姉に悪いなと思ったけど、自腹だったら「二人で行ってきて」と返してたと思うから(ツアー嫌だし〜どうせならもっと長くいたいし〜とか、お金ないのにワガママ・・・)、父の配慮に感謝して、ありがたく兄姉代表として受け取ることにした。
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今回の旅行は小5ぶりにパックツアーだったので行くだけの身だったけど、思ったよりも参加者が多くほとんどが親世代。のんびり自由行動が好きな私には大変なところもあったけど、それとは別に、母はいくつか特別な旅のハイライトを用意してくれていた。
一つ目は、2日目の午前中ボートに乗ってイリオモテヤマネコで有名な西表島に向かっていた時。隣に座っていた母のパンパンのバッグから、不意に取り出して渡された、この袋。
ボートのエンジン音が大きすぎて全く会話ができない中、母が手書きで教えてくれた「繁おじいちゃんの字」。それで書かれた「西表島 星砂 一九八二・一・一」。
家で瓶に入ったのはよく見ていたけど、これをわざわざこの旅に持ってきて、このタイミングで見せられるとは。母曰く、おじいちゃんとおばあちゃん(後妻なので血は繋がってないけど、私にとってはおばあちゃん)が旅行した時に持ち帰った星砂。
1982年の1月といえば、私が生まれる約2ヶ月前。さっきまで何も考えてなかったのに、急に40年の時を巻き戻すかのように、この古びたボートの質感や、一緒に乗船する参加者の中に祖父母の存在のようなものを、そして二人の思い出に向かっていく自分を感じ始めた。
母が用意したハイライトその2は、ホテルでくつろいでいた時おもむろに手渡された小さな包み。開けると、大きすぎるほどの珊瑚の指輪が!
3人の子持ちのシングルファーザーだった繁おじいちゃんが、後妻となる希以(けい)おばあちゃんに、「よく(大阪から)沖縄に嫁いで来てくれた」とプレゼントしたものだそう。珊瑚の大きさは愛情や感謝の表れだろうか。お洒落好きなおばあちゃんが受け取った時の笑顔が思い浮かぶ。(祖母のことは亡くなった時に記録したので良かったらこちらを。おじいちゃんとの写真も載せてます)。
私は今では指輪もマニキュアも全然しなくなったけど、これは好みや(おそらくなかなかの)物質的価値すらも飛び越えて、かけがえのない宝物になりました。ありがとう、一生大切にします。
実は母にとっても離島は初めてで、長年行きたいと言っていた母の願いを父が忘れずにいたおかげで叶った旅行となった。母は常々、死んだら遺灰の半分は沖縄の海に撒いてねと言っている。こんな綺麗な海に、それは戻りたいよね。
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飛行機がもう羽田に着くとなった頃、隣に座る母がまた唐突に、「英恵は戌年?」と聞いてくる。
「そうだよ」
「繁おじいちゃんも戌年の3月生まれ。3月11日。だから英恵とおじいちゃんは性格がよく似てる」
へー!そうなんだ!知らなかった!
どこが?と聞くと、頑固とか(コラ)、家族想いとか(それは姉らの方が)、芯があって一つのことを極めるとか(まぁ、まぁ)・・・。
ちなみに29歳で病気で亡くなった実の祖母の写真を一度見たことがあり、私の顔はこの祖母の系統なんだと思った。
あまり直接縁を感じることのなかった二人だから、自分ってたまたまこんな感じで存在しているような気でいたけど、私のルーツは本当にここにあって、図らずも祖父母の面影を醸しながら今生きているんだなぁと、最後の最後にまた不思議な気持ちになって横浜に戻った。
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母が沖縄らしさを出さずにいたことは、育ての母(希以おばあちゃん)との関係とかも要因にあったようだけど、詳しくはよくわからない。私には異文化の沖縄の味を、母は何度か「(自分の)おばあちゃんの味!」と懐かしみ、娘のようになっていたのが印象的だった。前回の沖縄でも驚いたことだけど、こういうキラキラを普段見せることはない。
母は全く沖縄料理を作ってくれなかったので、一度「なんで作らないの?」と聞いたことがある。「(希以)おばあちゃんが好きじゃなかったから・・・。」本当かな?私はそこだけは少し惜しいというか、母は管理栄養士でもあったので、プロとしても母の沖縄料理の味を知っておきたかった。私の味付けの基準は、全て母の味。しかしせっかくなので、独学ででもやってみるか。
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もう一つ、長くなっちゃうけどこの際。
おじいちゃんやおばあちゃんのことを考え旅をしながら、自分の中で静かに湧き立つ、まだ野心にも目標にも成っていない、人の人生をそのまま小説のように書いてみたいっていうほんのりとした、「やってみたい」。以前から構想が浮かぶことはあったけど、ボートで祖父母の星砂を見せられたら、またその気持ちがじんわりと湧いてきたので、我ながら長いけど記録することにした。
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今度は青い空と海目指して、私が親孝行に二人を連れ帰ることができるといいな。
お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう!!